尚徳諏訪神社 地域団体尚徳諏訪神社

京都の諏訪

今回は京都市下京区にある「尚徳諏訪神社」です。もともとは「下諏訪町(しもすわんちょう)」にあるので「下諏訪神社」、「下諏訪諏訪神社」と言っていたそうです。みなさんすぐにピント来ると思いますが、長野県の諏訪にある「下諏訪神社」に対応した関係の神社で、京都市内にはほかにも、「上諏訪神社」に対応した「諏訪大社分社(諏訪開諏訪神社)」、「御射山社」に対応した「御射山諏訪神社」(現在は某ビルの屋上に鎮座されており一般には参拝できない)があり、長野県にある諏訪神社を京都に再現したような形になっています。

少なくとも「尚徳諏訪神社」と「諏訪大社分社」をお詣りすることで、京都にいながら、本家諏訪の「諏訪神社めぐり」ができてしまいます。

この「尚徳諏訪神社」は、後の駒札のところで出てきますが、信州諏訪の「諏訪大明神」を篤く信仰していた征夷大将軍「坂上田村麻呂」が、蝦夷地平定の後、平安京に凱旋したときに京都に勧請して創建した由緒ある神社です。

ということで、「下諏訪町」にある「尚徳諏訪神社」にお詣りします。

尚徳諏訪神社 No2

「堀川通り」の一本西側にある「諏訪町通り」を「東本願寺」から歩いてきました。「鍵屋町通り」に出る寸前に「尚徳諏訪神社」があります。

尚徳諏訪神社 No3

民家と民家の間、こじんまりとしています。

尚徳諏訪神社 No15

表には「諏訪神社」の石票と、「諏訪神社」の説明書きがありますね。

尚徳諏訪神社 No4

「尚徳諏訪神社」の駒札です。

尚徳諏訪神社

祭神は建御名方神と八重事代主神、
延暦十六年(七九七)、桓武天皇より蝦夷平定のため征夷大将軍を拝命した坂上田村麻呂は、かねてより信州の諏訪大社大明神を深く信仰しており、そのおかげで戦果を挙げ、延暦二十年(八○一)平安京に凱旋した。
社伝によれば、その御礼のため、五条坊門の南に社殿を造営し、信州より諏訪大明神の分霊を勧請し祀ったのが創始である。
以来、時代を経るごとに社殿も荒廃していったが、その都度、源義経や足利義満、徳川幕府らによって社殿と境内地が復興された。
特に元治元年(一八六四)の禁門の変(蛤御門の変)の兵火では、社殿はことごとく焼失し、再建もおぼつかなかったが、孝明天皇が再建のためにと、金百五十両と菊の紋入りの提灯一対を下賜され、慶応二年(一八六六)に再建し、今日に至っている。
祈念祭は三月十七日、例祭は九月の第二日曜日、火焚き祭は十一月十七日、また、一日と十七日の月二回、月次祭が執り行われる。   京都市

尚徳諏訪神社 No5

延暦二十年創始とありますから西暦801年ですね。1200年余りの歴史があります。御祭神は「諏訪大明神」「健御名方神「事代主神」の三柱です。

尚徳諏訪神社 No6

おっと、「尚徳諏訪神社」の表札ですね。先代の宮司さんが亡くなられたときに、地区の自治会が法人格となって「諏訪神社」を取得したそうです。その際、名前の消滅してしまった「尚徳学区」を後世に残すために、「下諏訪諏訪神社」から「尚徳諏訪神社」に社名を変更しています。

尚徳諏訪神社 No7

境内に入ります。

尚徳諏訪神社 No8

まずは「忠魂碑」がありますね。

尚徳諏訪神社 No9

そして、手水舎です。

尚徳諏訪神社 No10

拝門です。

尚徳諏訪神社 No11

本社が見えますね。

尚徳諏訪神社 No13

格子の間から写真を撮らせていただきました。

尚徳諏訪神社 No12

お詣りします。

尚徳諏訪神社 No14

境内にある「弁財天社」です。

さて、気になっていたのが、表にあった住所表示板。

尚徳諏訪神社 No16

一つは通称「仁丹」と言われる、スポンサーが「仁丹」の町名表示版。これも相当古いのですがその斜め下のものも気になります。

尚徳諏訪神社 No17

この、はげてしまっている町名表示版、漢字を見ると、上の表示板よりも新しいものですね。でも、これだけ表示が見えなくなってしまっているということは、逆に言うと「仁丹」のクオリティーがとっても高いということが分かると思います。

この古い仁丹の町名表示版も少しずつ数が減っています。とても残念なのですが、現代版の新しい「仁丹」の町名表示版も設置されていますので、京都市内を歩くときには良く見てみてくださいね。新しいものは、現代の漢字が使われており、横書きの部分は左から右方向なのですぐにわかると思います。

アクセス

  • 京都市バス「烏丸六条」下車、徒歩7分

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする