麒麟がくる 明智戻り岩 

『麒麟がくる』には登場しなかったけれど...

え? まだ『麒麟がくる』? いつまでやってんの?

といわれそうですけども、まだやりますよ。

昔々のそのまた昔。

世間では「明智光秀」が反逆者と考えられていたころ...

亀人(亀岡市の人)は「光秀公」に対して、良い印象を持ってます。歴史の教科書では謀反を起こして本能寺の変にて主君の「織田信長」を滅ぼしたので逆賊のレッテルを貼られていますが、「光秀公」が治めた土地では、坂本にしろ福知山にしろ、この亀岡にしろ、良い統治を行ったので庶民受けはバッチリでした。

そんな「光秀公」ですが、亀岡で史跡となって残っているのは「亀山城跡」と「戻り岩」ぐらい。あと、「明智越」があるのですが、「明智越」には「光秀公」に関連した史跡や旧跡は残っておらず、ただ「通っただけ」の道で、現在はハイキングコースになってしまってます。「亀山城」も”跡”なので、堀ぐらいしか残ってません。

で、一番、「光秀公」を感じさせるのが「明智戻り岩」。今回紹介する巨岩です。

一つ前のBlogで書いたのですが、「霊仙ヶ岳」に登った時に「山頂」⇒「法貴城跡」⇒「明智戻り岩」と廻りました。

この「法貴城跡」⇒「明智戻り岩」が曲者で、約1時間の七転八倒の末、崖を転げ落ちるようにして降りてきたのが「明智戻り岩」のすぐ近く、台風で土砂崩れを起こして現在も交互片側通行になっているところでした。

「明智戻り岩」は、法貴の集落から「法貴谷ハイキングコース」に沿って「法貴谷川」沿いに登ってくることも可能ですが、増水時には道が水没してしまって通れず、また雨の後は滑りやすくて危険な個所があります。

なので、「明智戻り岩」を見たい人は、R423に沿って法貴の集落の方から上がってきた方がいいです。ただし、この道は交互片側通行で非常に危険なので歩いて通ることはやめといたほうがいいでしょう。それと、車で来ても駐車スペースがありません。以前は2,3台停められるスペースがあったのですが、交互片側通行の区間内なので事故防止のためにロープを張って駐車できないようにしています。

明智戻り岩 No2

交互片側通行の区間内。向こうは峠の下の亀岡方向です。ここから少し下ったところから土砂崩れで1車線になってます。で、目の前の小さな橋が「明智橋」。

明智戻り岩 No9

車で走っていると「橋」と認識できずに通り過ぎてしまうような小さな橋です。

明智戻り岩 No3

「明智橋」の親柱。

明智戻り岩 No4

なんて書いてあるの?「阿希ちはし」?

明智戻り岩 No8

欄干も非常に低いです。落っこちると、けっこう下まで高さがあるので助からないでしょう。

明智戻り岩 No5

「明智橋」の横に「法貴谷ハイキングコース」「明智の戻り岩(屏風岩)」の案内があります。

明智戻り岩 No10

こんな立派な看板も建ってるんですけど。「tha」ってなに?

明智戻り岩 No6

支柱が折れて地面にぶっ倒れているんですけど、「法貴谷ハイキングコース」の案内板。

明智戻り岩 No7

川沿いに道を下ります。で、数十メートル進むと...

明智戻り岩 No11

ど~~ん! これが「明智戻り岩」だそうです。

明智戻り岩 No12

「南無妙法蓮華経」とありますが、「光秀公」とは関係ないようですね。

明智戻り岩 No13

「明智戻り岩」の立札もあります。

明智戻り岩 No14

全部を収めようとどんどん引いて行ったんですけど、とうとう川の中まで入らないと全景を収めることはできませんでしたよ。

明智戻り岩 No15

「法貴山城跡」から降りてきたときに、この上に出たらと思うと冷や汗もんです。おかげさんでもう少し下流に降りてきたんですよ。降りた後にここに来て足が震えました。

明智戻り岩 No16

「明智戻り岩」から少し下流です。片側交互通行の土砂崩れ場所です。私は「法貴山城跡」から、ここへ降りてきました。「明智戻り岩」は上の画像で、右の方の石がごろごろしている所の間隙というか谷間を抜けたもう少し向こうです。増水時や雨の後は通れません。

そういや「戻り岩」のことを説明しませんでしたね。

「戻り岩」は「光秀公」が丹波平定のときに、この辺りの巨岩に阻まれて引き返したので「戻り岩」と名付けられたとか、主君の織田信長から中国地方平定の「豊臣秀吉」を援軍として出兵を命じられ、亀山城から出発してここに差し掛かった時に反旗を翻し、一路「本能寺」を目指したとか言われるところです。

昔々、私が亀岡に引っ越してきたときには、「戻り岩」はここから本能寺を目指すことになった歴史のターン地点として聞かされていたので長い間そのように思ってました。

史実から行くと、丹波平定のときにこの近くの「笑路城」の城主であった「長沢家綱」が「法貴山城」の「酒井孫左衛門」の執り成しで「戻り岩」で「光秀公」と対面して所領を安堵され、以後本能寺の変や山崎の合戦にも「光秀公」の側として参加しています。ここから「戻り岩」と名付けられたと考えるのが一般的ではないでしょうか。

後世、なんでも話が大きくなって行くんですね。でも、それだけ「光秀公」は日本の歴史の中で大きな役割を果たした人物だということでしょう。

さて、「光秀公」の史跡が少ない亀岡ですが、もう一つこの近くで、光秀公と関係のあるところを紹介しましょう。

アクセス

  • 京都縦貫道「亀岡IC」より車で15分程度

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