町は変遷する
京都市上京区には西陣と呼ばれる地域があります。応仁の乱(1467年~1477年)の時に西軍の総大将である「山名宗全」公らが堀川よりも西のこの土地に陣を構えたことに始まります。
応仁の乱で京都中が荒廃してしまったので、京都市の中心部にはそれ以前の建築物などがほとんど残っていません。特に戦乱の激しかった西陣はほぼ壊滅状態です。応仁の乱後に建てられた史跡などは残っていますが、やはり時代の流れと共に失われつつあります。
今日は今出川の新町を下ったところにある、「狩野元信邸址」を訪れます。
今出川通りから「新町通り」を下っていくと、いきなりでっかい建物が目に入ります。同志社大学の「継志館」という建物です。
この「継志館」の真ん前から、西に向かって走っている通りがあります。「元誓願寺通り」という細い道なのですが、そこに「狩野元信邸址」があります。
上の画像は「元誓願寺通り」なのですが「元誓願寺通り」は、このあたりではとても狭い道で、車一台が何とか通れる道幅です。当然一方通行ですよ。
歩いていると見落としてしまいまそうな石票です。
「此附近 狩野元信邸址」の石票です。ちょっと斜めになって立っています。
「大正六年一月建立」とあります。歴代の狩野派がこの地に住んだと伝えられており、この附近を「狩野図子」と呼びました。現在はその面影は認められません。
室町時代の絵師、狩野派の初代「狩野正信」の子「狩野元信」がこの地に屋敷を立てて住みました。「元信」は室町幕府の御用絵師となり、狩野派繁栄300年の基礎を固めた人です。「松栄」・「永徳」と続き、その子や弟子が代々この地に住みました。
「狩野元信」は父である「狩野正信」の画風を継承するとともに、当時の中国風の絵である「漢画」の画法を整理して、そこに「大和絵」の技法を取り入れることにより、狩野派の画風を大成し、近世における狩野派繁栄の基礎を築きました。
室町幕府の御用絵師となったことで権力者の需要に応える一方、市井では町衆に絵付けした扇を積極的に販売して、当時の「扇座」の中心となりました。ただ絵を描くだけではなく、絵の販売を事業として推し進めました。
現在の「狩野図子」は、普通のごく一般的な住宅街になっています。細い路地なので庶民的な雰囲気のする場所です。この石票が無ければ、だれも立ち止まろうとすることはないでしょう。そう思うと、「石票」があることによって、過去に思いをはせることができるのですから、とっても大事な役割を持ったものだと思います。
アクセス
- 京都市バス「今出川新町」下車、徒歩5分