角倉氏邸址 京の三長者

 事業家 了以

角倉了以(すみのくらりょうい)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての京都の豪商です。大堰川(おおいがわ:保津川)、高瀬川を私財を投じて開削しました。

角倉了以とその長男 素庵は朱印船貿易の大商人で、安南(ベトナム)などと交易していました。当時の海外貿易は一回の渡航で巨額の富が手に入るという点では魅力的な事業でしたが、リスクの高いものでした。了以が他の豪商たちと違うのは、リスクの高い事業に頼るのではなく、末代にわたって収入が入る商売の仕組みを作ったとこでしょう。利益は薄くても長期的に安定した収益があがる事業として目を付けたのが生まれ育った京都の嵯峨を流れる大堰川(保津川)でした。

保津川上流である丹波の豊富な木材や薪炭、米や野菜などの物産を、効率よく運ぶには馬借ではなく船の方が良く、利益も上がると確信し、息子素庵を徳川家康がいる江戸に派遣して、幕府に開削許可を願い出ます。許可を得ると、僅か5ヶ月で丹波から嵐山までの舟の航路を開き、物資輸送の舟運を整備しました。

その後、第3代将軍徳川家光の鎖国政策により朱印船貿易が禁止された後も、保津川を通行する舟からの通行料を徴収することで収入を確保しています。先見の明がありました。

慶長16年(1611年)、了以は鴨川の水を引いた人工運河として高瀬川の開削工事にも着手し、3年後の慶長19年(1614年)、二条から伏見の港までの運河を完成させます。高瀬川開削と舟運開通により、二条から伏見、そして淀川を経由して大坂までの舟運ルートを完成させました。

もともと豪商として財を成していましたが、これによりなお一層の財を成しています。

角倉了以邸址 No2

木屋町通りを三条から上がってくると、一之船入を超えたところに石碑があります。

角倉了以邸址 No3

橋のたもとにひっそりと建っています。

角倉了以邸址 No4

一之舟入(いちのふないり)がすぐ横です。

角倉了以邸址 No5

実は日本銀行京都支店の入り口でもあります。

この向かいには「角倉了以別邸跡」もあります。一之船入と一緒に訪れてみてください。

アクセス

  • 京都市バス「京都市役所前」下車、徒歩5分
  • 京都市営地下鉄「京都市役所前」、下車徒歩5分

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