平安宮西限・藻壁門跡 たびたび転倒

 中御門大路(なかみかどおおじ)の外郭門

平安京大内裏の西の端です。大内裏の外郭には十二の門がありました。ここには「藻壁門(そうへきもん)」という門があり、右衛門府が警固していました。

「藻壁門」は延暦13年(794年)、平安宮造営のときに但馬国が造営し、佐伯氏がこれを担当したことがその名称の由来だそうです。(さえき → さうへき)

平安宮西面の中央にあるために「西中御門」とも呼ばれました。切妻瓦葺の門で、記録には寛仁4年(1020年)に転倒したのをはじめ,たびたび転倒・焼失したとあります。

「藻壁門」の前を横切る道が「西大宮大路」で、「藻壁門」自体は「中御門大路(なかみかどおおじ)」に向かっています。「中御門大路」は、平安宮東面の「藻壁門」と反対の位置にある「待賢門(たいけんもん)」を通りますが、「待賢門」が「中御門」と呼ばれていたので、その名前があります。

「中御門大路」は、現在の丸太町通りとは、この「御前通り」から「春日通り(佐井通り)」までが重なります。平安時代、この大路沿いには公家の邸宅や厨町がありました。また「春日通り」の辺りには「右獄」がありました。平安時代中期以降、右京は廃れていくので、家屋は減少し田畑ばかりになっていったそうです。

さて、これといって取りえのない「藻壁門」ですが、弘仁9年(818年)に額を改め、「小野篁(おののたかむら)」の孫で書に優れていた「小野美材(おののよしき)」の筆額を掲げています。また、天徳3年(959年)には「小野道風(おののとうふう)」の扁額を掲げています。遣隋使で有名な「小野妹子」が祖先の小野氏ととても深い関係にある門です。

節分に行われる「追儺の儀式」では「藻壁門」には「白い土牛童子」を立てました。

平安宮西限・藻壁門跡 No5

石票は丸太町通りの「朱雀第二小学校」北側にあります。「御前通り」の交差点です。

平安宮西限・藻壁門跡 No2

不審者が入らないように設置されているのでしょうけど、この「網」がねぇ。

平安宮西限・藻壁門跡 No6

見えることは見えるし、説明書きの字も読めるのですが。なんともね。

平安宮西限・藻壁門跡 No3

やっぱり写真は撮りにくいですよ。

平安宮西限・藻壁門跡 No7

網の隙間からとるのですが、石柱までの距離が近いので、超広角でないとすべてが入り切りません。

平安宮西限・藻壁門跡 No8

断念して2枚に分けましたよ。

平安宮西限・藻壁門跡 No4

「源氏物語ゆかりの地」としての説明書きもあります。『源氏物語』第二巻「帚木(ははきぎ)」巻の「雨夜の品定め」で「左馬頭(ひだりのうまのかみ)」が登場します。

「左馬寮跡」でもあるのですが、現在でも「西ノ京左馬寮町」という地名が残っています。左馬寮の南には「右馬寮」もあり、「西ノ京右馬寮町」の名前が残っています。

火事による消失は仕方ないにしても、記録にはたびたび転倒したとあるのですが、門が転倒とはあまり縁起良くないですね。そんなに良い材料を使っていなかったのでしょうか。

アクセス

  • 京都市バス「丸太町御前通」下車、すぐ 朱雀第二小学校北西角

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