成勝寺跡 六勝寺跡巡り その2

 発掘で少しずつ分かってきた

「六勝寺跡」巡りの2番目は「成勝寺(じょうしょうじ)跡」です。「成勝寺」は崇徳天皇の御願寺で保延5年(1139年)に落慶供養が行われました。「六勝寺」の中では5番目に建立されたお寺です。

崇徳天皇は鳥羽天皇と待賢門院の第一皇子として生まれました。父である鳥羽天皇の死後、皇位継承をめぐり保元元年(1156年)に保元の乱が勃発した際には後白河天皇と対立し、白河北殿に陣取って戦いましたが敗北してしまいます。この公家の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増して、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなりました。

この結果、崇徳上皇は讃岐(現在の香川県)へ流罪となり、その地で没しました。戦いに勝った後白河天皇は「石清水文書」と言われる「保元の宣命」を作成して石清水八幡宮に乱の勝利を報告します。しかし安元2年(1176年)に建春門院・高松院・六条院・九条院など後白河天皇に近い人々が相次いで死去し、翌安元3年(1177年)に延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀といった大事件が勃発するに及んで、朝廷では保元の乱の怨霊による祟りと恐怖するようになりました。後白河は保元の宣命を破棄し、「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改め、「成勝寺」では「崇徳院」の怨霊を鎮めるための御八講法要が行われます。崇徳上皇は、菅原道真、平将門と並ぶ、日本三大怨霊の一人として数えられるぐらいなので、それはもうすさまじいものがあったのでしょう。

「成勝寺」は応仁の乱によって廃絶しました。現在は世田谷に「伏見山 成勝寺」として残っています。

成勝寺跡 No2

「成勝寺」があった場所は、岡崎公園にある「京都勧業館 みやこめっせ」の敷地とほぼ重なるそうです。夕暮れ時の「みやこめっせ」です。

成勝寺跡 No3

「成勝寺跡」の石票は、「みやこめっせ」東側の公園にあります。

成勝寺跡 No4

公園の端の方で、何もないところにポツンと石票だけが立ってます。

成勝寺跡 No5

現在の「みやこめっせ」を建てるときに、発掘調査がなされたので「成勝寺」についてはある程度の資料が残っています。また、京都市美術館敷地の北西角にあった喫茶施設とその周辺の敷地の発掘調査でも、「成勝寺」の遺構が出土しています。

成勝寺跡 No6

敷地的にはけっこう広いお寺だったようですね。金堂(七間四面)・東西軒廊・東西廻廊・経蔵・鐘・楼・南大門・北門・東西門があったと資料に書かれています。後に観音堂・五大堂・惣社・宝蔵・政所・修理所も作られています。

成勝寺跡 No7

都で何か良くないことが起こると、怨霊の仕業となり、人々は恐怖し、御霊を鎮めるために神仏に頼るという図は近代まで続くんですね。そして名のある人がなくなった後には、必ずと言っていいほど凶事が続くというのが、これまた不思議なんですね。天変地異などの凶事が怨霊や神仏の賜物だとは思いませんが、そういう時期にわざわざ起こったり、連続して起こるということに関しては怨霊のせいかもしれませんね。

アクセス

  • 京都市バス「岡崎公園 ロームシアター京都 みやこめっせ前」下車、すぐ

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