与謝蕪村宅跡 釘隠町の路地奥

清閑な住まい

昨日紹介した「佛光寺」の近くに、「与謝蕪村宅跡(終焉の地)」がありますので行ってみます。

仏光寺の北側の通りは「仏光寺通り」と呼ばれています。その「仏光寺通り」を西に歩き、「烏丸通り」を渡ってもう少し歩くと「与謝蕪村宅跡」の石碑と駒札があります。

与謝蕪村宅跡 No2

「仏光寺通り」の南側に立っています。

与謝蕪村宅跡 No3

「啓明ホールディングス」という会社の真ん前です。この地が昔「与謝蕪村」が住んだところです。昭和36年まで路地があり、その一番奥に住まいがありました。

与謝蕪村宅跡 No4

「与謝蕪村宅跡(終焉の地)」の石碑と駒札です。

与謝蕪村宅跡 No5

「与謝蕪村」は摂津生まれの俳人で画家でもあります。俳画の創始者ですね。生家は豪農だったのですが、父親が急逝してしまい、財産を失ってしまいました。俳画家になることを目指し、元文2年(1737年)江戸に下り「早野巴人(はやのはじん:夜半亭宋阿〔やはんていそうあ〕)」に師事し俳諧を学びます。

寛保2年(1742年)「蕪村」が27歳の時、師である「巴人」が没したあと、「松尾芭蕉」の行脚生活に憧れてその足跡を辿り、僧の姿に身を変えて東北地方を周遊しました。絵を宿代の代わりに置いて旅をしていたそうです。

寛延4年(1751)「蕪村」が36才の時に京都に上り知恩院の近くに居を得ました。
その後、3年足らずで京都を去って「丹後宮津」ヘ赴き、浄土宗「見性寺」に寄寓して本格的に画の勉強を始めます。 42才で再び京都に戻った蕪村は姓を「谷口」から「与謝」と改め、画を売って生活をたてる決心をします。45歳ごろには漁師の娘「とも」と結婚し一人娘の「くの」を儲けます。 51歳になると妻子を京都に残して讃岐に赴き、多くの作品を手掛けています。再び京都に戻った後は、島原(嶋原)角屋で句を教えるなどして生計を立てました。

与謝蕪村宅跡 No6

「与謝蕪村」は上洛した後、転居を繰り返して色々なところに住んでいました。「長刀鉾町」、「白楽山町」にも住んだとのことです。安永2年(1774年)、四条烏丸付近に住んでいた時に、妻の「とも」が「釘隠町(くぎかくしちょう)」にある路地奥の静かな空き家を見つけてきて、そこに住むことになりました。その空き家には狭い庭もあり、縁も付いていたそうです。

安永5年(1776年)には「金福寺(左京区)」に「芭蕉庵」を再興しています。

そして天明3年(1783年)、68歳でこの世を去るまで「釘隠町」のこの地に住み続け、絵画や俳句の創作活動を行いました。

辞世の句は

「うぐひすや何ごそつかす薮の霜」

「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」

と詠んでいます。「蕪村」は「芭蕉」と親交があり、一乗寺辺りに吟行に訪れており、「芭蕉庵」と「芭蕉句碑」の傍らに葬られることを望んでいたそうです。葬儀は「金福寺」で行われ、そこに埋葬されました。「金福寺」には遺品も残されています。1784年に、門人が「金福寺」に墓を立てています。妻の「とも」も剃髪し清了尼となり、没後は「蕪村」とともに葬られました。

おまけ

「蕪村」の終の棲家となった家の前にはお地蔵さんがあったとのことです。そのお地蔵さんは昭和22年に釘隠町の町内会で移転が決まったそうです。

与謝蕪村宅跡 No7

そして、そのお地蔵さんが、駒札の少し右手の方(西方向)にあります。「釘隠町」内を歩いてみましたが、お地蔵さんはここだけなようなので、多分このお地蔵さんで間違いないと思います。

与謝蕪村宅跡 No8

路地の奥の「与謝蕪村」の家の前にあったであろうお地蔵さん、お顔を拝見したかったのですが、中の戸は閉められていたので、ご尊顔は拝見できませんでした。残念。「蕪村」は毎日拝んでいたのでしょうね。

「蕪村」の一生を見ていると、幼少期から壮年期はなかなか恵まれない人生でしたが、自分のやりたい俳諧中心の生活を送り、結婚後は転居を繰り返すも、最後には清閑な路地奥の一軒家を見つけ、つつましい中にも優雅な生活を手に入れています。俳画だけではなかなか裕福な生活は送れなかったのでしょうが、妻「とも」が家を守ってくれたのだと思います。勉強や技巧の向上のためとはいえ、俳画のために妻子を残して地方を周遊できていたというのは、やはり「とも」に負うところが大きかったのでしょう。「蕪村」にとっては福運となる妻だったのではないでしょうか。やりたいように人生を過ごし、死後はあこがれの「芭蕉」の近くに妻とともに眠るというのは、何一つ悔いのない一生だったことでしょう。ああ、うらやましい。

アクセス

  • 京都市バス「四条烏丸」下車、徒歩3分

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