芹根水石碑 名水七選

またまた「烏石」登場

前回の「文房四神之碑」に引き続き、江戸時代中期の書家「松下烏石(うせき)」に関する石碑を紹介します。

芹根水石碑 No2

これが前回の「松下烏石」の「文房四神之碑」です。

場所は塩小路通りを堀川から一筋西に入った交差点を北に上がった旧「安寧小学校」の裏側です。旧「安寧小学校」は現在「梅小路小学校」になってるんですね。統廃合の話があったのは知っていますが、新しい小学校になっているとは知りませんでしたよ。

で、「文房四神之碑」を北側から見ると...

芹根水石碑 No3

木に隠れて石碑があるんですね。これが今回の目的である「芹根水」の石碑です。

「芹根水」は京都の名水の中では「茶の七名水」や「都七名水」として挙げられる、昔からの名水でした。「でした。」と過去形なのが残念ですが、現在は井戸そのものが存在しません。大正三年(1914年)の「堀川」改修で濁水が混入するようになり井筒も失われて、この碑だけが残されました。

「芹根水」というのは、もともとは堀川西岸のこの辺り(清水町)の井戸だったそうで、平安時代からあって霊水として知られていたのだそうです。

「芹根水」は、平安時代初期の貴族で嵯峨天皇の皇子である「源融(みなもとのとおる)」が「河原院(六条河原院)」にも引き入れていたとのことです。でも、これって本当なんですかね?

現在「河原院址」の石碑が下京区木屋町通五条下ルにあるんですけど、そこが「河原院」の東の端で、西は「萬里小路」までとWikipediaには書かれています。「萬里小路」は現在でいうと、「柳馬場通り」に当たるそうですから、「堀川西岸」⇒「柳馬場通り」というとてつもない距離を引いていたのでしょうか?

確かに「河原院」は広大な規模で、陸奥国塩釜の風景を模して作庭した庭園があり、毎月尼崎から30石の海水を運んで塩竈(塩焼き)をして楽しんだとのことなのですが、それだけ財力があったとしても、どんな技術で堀川を超えて水を引っ張っていったのでしょうか。昔、堀川がもっと西を流れていたとしても信じがたい距離です。

歴史を見ると、その後も「芹根水」は絶えることなくわき続けました。室町時代には「能阿弥」によって、「茶の七名水」の1つに数えられています。

江戸時代に入って、前回取り上げた「松下烏石(烏石葛辰)」は洛中の名水の保存と顕彰に努めました。「烏石」は下魚棚通西堀川角に住んだというので、この「芹根水」のすぐ近所ですね。「烏石」自身が「芹根水」と書して刻んだ石票も建てられており、その石票が現在残っている石票です。

芹根水石碑 No4

案内書きと一緒に立っていますね。年銘がないのが残念ですが「宝暦年間」に建てられたものだということです。

芹根水石碑 No5

書家の字なんですね。う~ん、私にはなんかよくわかりません。「味がある」字なのでしょうか?

芹根水石碑 No6

案内書きの中身です。

芹根水の碑     江戸時代後期 花崗岩(白川石)

芹根水は、むかし洛中七名水の一つに数えられていた。
安永九年(一七八○)の「都名所図会」によれば「芹根水は堀川通木津屋橋の南にあり、近年書家 烏石葛辰 清水に井筒を入れて傍らには芹根水の銘みづから (中略) 書して石面に彫刻す云々」と記し、石の井筒から清水が涌き出して堀川に流れ込むさまを図示している。
江戸時代の著名な書家、烏石葛辰(一七○○~一七七九)は葛烏石、烏石山人とも号し、洛中名水の保存と顕彰に努めた。この碑もその代表的な一つであり、惜しくも年銘はないが、今から二百三十年前宝暦年間の製作と考えられる。
以来この名水は文人墨客、茶道家、商家一般に永く愛用されたが時移り大正三年(一九一四)堀川改修に際して濁水混入し、井筒も失われ、独り碑のみが護岸中にのこされていた。
いま堀川暗渠工事に先立ち、碑を河中より引揚げその保存を図るも、飲水を大切にした古人の心を現代に伝えたい願いにほかならない。

と書かれています。下の絵は「都名所図会 巻二」にある「芹根水」です。井筒で囲まれており堀川に注いでいます。記述によれば「芹根水」は堀川通りの「木津屋橋通り」南側にありました。

芹根水石碑 No7 『都名所図会』巻二

木津屋橋は生酢屋橋ともいわれていました。橋の傍らに生酢(きず)を商う家があったため「生酢屋橋」と呼ばれ、その通りも「生酢屋橋通り」と呼ばれていたのだそうです。どういう変遷がったのかは不明ですが、現在は「木津屋橋」という字があてられています。「生酢屋橋」は「月見橋」とも呼ばれていたそうで、お月見に名所でもあったようです。

また、現在の「塩小路通り」は「木津屋橋通り」より一本南側の通りですが、平安時代にはこの「木津屋橋通り」が「塩小路」通りと呼ばれており、「河原院」で行われた塩竈のために運んだ海水と関係があるのではないかと推測されています。

案内書きにもありましたが、近代、大正3年(1914年)堀川の改修の際に、井戸は荒廃してしまい濁水も混入するようになってしまいました。さらに普段の堀川も水を失ったために、井戸も涸れてしまいます。その後、「芹根水」は失われてしまったのですが標柱石のみ堀川に残されていました。そしてついに昭和57年(1982年)押小路以南の堀川暗渠化に伴って、井水の痕跡は完全に消失してしまい、標柱石は掘り出されて現在の地に移されています。

現代では、京都水族館も近くに開業しており、この辺りは水や塩と関係のある土地であり続けることは歴史の因縁ではないでしょうか。

アクセス

  • 京都市バス「下京区総合庁舎前」下車、徒歩5分

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