岩倉具視公旧蹟 岩倉公旧蹟保存会

維新の十傑

今回取り上げるのは、岩倉具視(ともみ)公です。今まで岩倉具視公はほとんど出てきませんでした。別に避けていたわけではないのですけども、関連した史跡・旧跡が岩倉に多いので、なかなか足を運べずにいました。

今回は上賀茂から西賀茂を歩きましたので、その時に寄った具視公の旧跡を紹介します。(ちょっと立ち寄っただけなので、石票の紹介だけです。)

具視公は文政8年(1825年)に公家である「堀河康親(やすちか)」の二男としてとして京都に生まれました。小さいころから才覚を現し13歳で「岩倉具慶(ともやす)」の婿養子(次女の誠子と婚姻)となり、朝廷での地位を築きます。

具視公は第121代「孝明天皇」の侍従となり、安政5年(1858年)条約勅許を求める幕府に反対し、後に「公武合体」を唱え,「和宮降嫁」を進言し「四奸(よんかん:久我建通,千種有文,富小路敬直)」の一人として尊王攘夷派に排斥されました。

文久2年(1862年)に官を辞して,岩倉家の菩提寺である「霊源寺」で剃髪して蟄居しました。この「霊源寺」にある石票を訪ねます。

上賀茂というと、「上賀茂神社」ばかりが紹介されますが、どちらかというと「上賀茂神社」は「上賀茂」の入り口であって、もっと北の方まで続いています。ほんでもって、その西側に当たる地区が「西賀茂」と呼ばれる地域です。

昔は、ホントに何もないところで(地域の人ごめんなさい)田畑と農家があるぐらいでした。上賀茂の入り口辺りには京都産業大学の学生さん向けのアパートなどはあったのですが、はっきり言って不便でわざわざ住もうという人はあまりいませんでしたよ。

ところが、住宅ブームで開発が山の方に進むにつれ、上賀茂や西賀茂も宅地開発が進み、こんな山の際まで...というようなところにも住宅が建っています。将来、少子高齢化が進んで、極端な人口減少が起これば、とても暮らしにくくなるのではないでしょうか。

ま、そんなことは今あまり関係がありませんのでちょっと置いておいて、京都市バスで向かいましょう。

京都市バスの路線では、「西賀茂車庫」まではけっこう路線があって本数もあるのですが、その周りの地域には、あまりバスは走っていません。車がないと交通の便が悪い地域になっています。

私は、「上賀茂神社」のある「御園橋」まで行って、そこからあちこち歩きました。

岩倉具視公旧蹟 No2

で、やってきました「霊源寺」の山門です。

岩倉具視公旧蹟 No3

「霊源寺」の駒札です。具視公は、文久2年(1862年)からこの「霊源寺」に蟄居し、以後5年あまり蟄居の身でありながら、岩倉村で諸藩志士と通じて維新の推進力となりました。その時に難を逃れた旧跡などが岩倉にあります。

岩倉具視公旧蹟 No4

「岩倉具視公旧蹟」の石碑です。今回の目的はこれです。この石票を建立したのは「岩倉公旧蹟保存会」という大正14年(1925年)に地域の住民らと岩倉家が設立した会です。残念ながら平成25年,財団法人岩倉公旧蹟保存会は解散してしまいました。こんな会が発足するなんて、やはり具視公はすごい偉人だったんですね。

岩倉具視公旧蹟 No5

「浮上之輩不許入」とあります。お寺の境内には具視公の「歯牙塚」があるそうですが、どうも私のようなものは歓迎されていないようなので、ここまでとしておきましょう。

いずれ機会があれば訪れましょう。

アクセス

  • 京都市バス「西賀茂車庫前」下車、徒歩10分

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