楢崎家跡(坂本龍馬 妻 お龍さん実家跡) 

「まことにおもしろき女」の困窮した半生

「楢崎(ならさき)家跡」といってもピンときませんね。

今日は坂本竜馬の妻となったお龍さんの実家である「楢崎龍」の跡を訪ねます。

何年か周期で「新選組」がブームになると、京都観光においても「新選組」関連旧跡ツアーみたいなものが組まれ、若い女性を中心にスポットめぐりが盛んになります。こういう「幕末もの」がはやると、「坂本龍馬」に関するスポットも、観光客が訪れることとなります。

そんな「龍馬」に関するスポットは京都にたくさんあるのですが、有名どころは京都のガイドブックにまかせて、私は超マイナーなスポットの紹介をしましょう。

今回は、「坂本龍馬」の妻となった「楢崎龍(ならさきりょう)」の実家跡です。なんともまぁ、マイナーの極み。こじつけとかではありませんよ。

では、行ってみましょうか。

「楢崎家跡」の石碑が建つのは、「柳馬場(やなぎのばんば)三条下る」です。三条通りから柳馬場を下ります。

お瀧さん実家跡 No2

柳馬場を下るとすぐにお蕎麦屋さんが目に入ります。その名も「お龍庵」。う~ん、ここに間違いありませんね。

お瀧さん実家跡 No3

お店の入り口にチラッと石票が見えます。

お瀧さん実家跡 No4

「この付近 坂本龍馬 妻 お龍の実家 楢崎家跡」とあります。

お瀧さん実家跡 No5

お店の前には案内書きがありました。

柳馬場三条下ルの此付近は、のちの坂本龍馬の妻お龍(鞆)の実家跡です。

お龍は、青蓮院宮に仕える内・外科医、楢崎将作の長女です。天保12年(1841)に富小路六角付近で誕生し、しばらくしてこの地に移り住んだと思われます。
お龍には、父母のほか、弟妹が4人もおりましたが、家事を任されることもなく、華道、香道、茶道などのおけいこごとに専念できたようです。父在世中は、いわば良家のお嬢さまとして、裕福に暮らしていたといえます。
文久2年(1862)6月20日、父楢崎将作が亡くなると、一家の生活は一変します。長弟太一郎はまだ幼少で、亡父に代わって家族をやしなうことができず、とうとう一家はばらばらになります。
お龍とは別行動をとった母貞と末妹の君江は、洛東大仏方広寺南門前(現三十三間堂南大門)の河原屋五兵衛(もしくは五郎兵衛)の隠居所に居住する土佐亡命志士の賄いのため、住み込みで働きます。ここに龍馬が住んでいたのです。これがお龍と出会うきっかけとなります。
龍馬はお龍を紹介した姉乙女宛の手紙に、さまざまな彼女の個性を記し、「まことにおもしろき女」と評価しました。
龍馬が愛したお龍の人格の形成された場所、それは父の死まで一家団欒をすごしたこのちであったにちがいありません。
以上の理由から、当地を龍馬に関する重要史蹟とし石碑を建立するものです。

歴史地理研究者 中村武生

と書かれています。

お龍さんは医者の娘として何不自由のない生活から一変して一家離散の憂き目にあいます。姉妹が舞妓や女郎に売られると知ったお龍さんは、着物を売って金をつくると大坂に下り、刃物を懐に抱えて死ぬ覚悟で妹を取り返したそうです。そんな困窮した生活の中で「坂本龍馬」と出会い、ぞっこん惚れ込んで結婚したのです。龍馬の死後、お龍は土佐の龍馬の実家に未亡人として入ったもののそりが合わず、また京都に戻ったのですが生活が苦しく東京に行きます。神奈川の料亭で仲居として働いていた時に「西村松兵衛」と再婚し、「西村ツル」となり、横須賀で暮らすようになりました。夫に先立たれた妹のお光を引き取るのですが、お光と松兵衛が恋仲になって出て行ってしまいます。晩年はアルコール依存症状態で退役軍人「工藤外太郎」に保護されて余生を送り、 明治39年(1906年)66歳で死去しました。

お龍さんの生涯はけっこうな浮き沈みがある人生だったんですね。金持ちの家から一転して貧乏暮し、最愛の人と結ばれるも死別して困窮生活、再婚するも妹に横取りされて困窮生活に一生を終えるという、なかなか落ち着かない人生でした。そんなお龍さんの人生の中でも、楢崎家の娘として何不自由のない落ち着いた生活を送れたこの場所は、龍馬が「まことにおもしろき女」と評した彼女の人格形成にとても影響した場所なのではないでしょうか。

石碑しかありませんが、お龍さんの実家跡、一度訪れてみてください。

アクセス

  • 京都市バス「堺町御池」下車、徒歩5分

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