高倉宮跡 平家滅亡の引き金

平家滅亡の発端の地

今回は、少し古い時代の史跡を目指します。ま、古いと言っても源平合戦のころなので、まだ新し目かもしれませんね。

源氏と平家は武士の2大勢力となって、朝廷をも脅かす存在となりました。平家はうまく取り入って勢力を広げ「平家にあらずんば人にあらず。」と豪語するようになります。今の世の中でこんなことを言えば人権評論家から突き上げを食らって、SNSも大炎上の事態となることなのでしょうが、それこそ、権謀術数でのし上がり、刃向うものは武力で制圧するのが当たり前の世の中では、「やったもん勝ち」がまかり通っていたのでしょう。

さて、そんなやりたい放題の平家を打倒した源氏ですが、全国に散らばっている「源氏」たちが「打倒平家!」を叫んで、一族が「源氏」の名のもとに結束して武力放棄するきっかけとなったのはどんなことだったのでしょうか。

世を平定する(天下を取る)というのが武士の最終目標なのでしょうけど、「驕る平家」に立ち向かうには、よほどのことがないとそうそうできることではありません。失敗すれば一族郎党、謀反ものの烙印を押されて皆殺しになり、街道筋に首をさらされるのが落ちでしょう。

さて、そんな源氏一族に対して、「平家追討」の「令旨(りょうじ)」を発したのが「以仁王(もちひとおう)」です。厳密にいうと「令旨」としては不備があり、皇太子どころか親王ですらないので、「令旨」としての効力が、いかほどのものだったのかは分かりませんが、日本の歴史ではこの「令旨」が発端となって、源氏が立ち上がったということになっています。当の「以仁王」ですが、「令旨」は「源頼政」にそそのかされて書いたとかという説もあり、また「最勝親王」と称して武力蜂起する前に「平家」にばれてしまい追っ手がかかります。南都に向かって逃げるのですが、追っ手と戦った「頼政」は多勢に無勢で戦死し、「以仁王」も山城国の「綺田」の辺りで追っ手である「藤原景高」、「藤原忠綱」らにより討たれました。

と、まあ、あっけない最後となってしまったのですが、後世に伝わる「源平合戦」の発端となった「以仁王の令旨」が下されたという「高倉宮跡」を訪ねます。

高倉宮跡 No2

烏丸御池の交差点ですが、北東角にあるニチコンのビルです。夜になるときれいです。NHK京都放送局の夜のニュースの最後に背景画として使われることが多いです。

高倉宮跡 No3

「烏丸御池」から少し下がります。

高倉宮跡 No4

と、西側の並びにはNHK京都。

高倉宮跡 No5

姉小路通りまで下がると、現在工事中の、元「新風館」です。前はいろいろな店舗が入った複合商業施設だったんですけど、時代の流れとともに徐々に衰退して潰れてしまいました。今度はホテルにでもなるんですかいな。この建物、一番最初は「京都中央電話局」でした。「京都市登録有形文化財」の第1号です。その、元「新風館」の北側の筋(姉小路通り)を東に向かいます。

高倉宮跡 No6

姉小路通りにはこんな古い建物もあります。で、少し先の「新風館」の裏側の通り(東洞院通)を下ります。

高倉宮跡 No7

「東洞院通り」を下ると、すぐ目に入るのが「京都市教育相談総合センター」です。ここの前が今日の目的地です。

高倉宮跡 No8

これですよ、これ。周りの風景と同化していて、これが目的の人でないと絶対に注意を払わないであろうと思われます。

高倉宮跡 No9

じゃじゃ~ん。「高倉宮跡」の石碑です。背後の木との一体感が何とも言えません。

高倉宮跡 No10

「高倉宮跡」の左側には「公爵鷹司熙通書」と刻まれているようです。

高倉宮跡 No11

「高倉宮跡」の石碑のお隣には「明治天皇行幸所上京第廿九(組小学校)」の石碑があります。下の方は埋没していて字が確認できません。明治10年(1877年)に「明治天皇」の関西行幸が行われた時の石碑です。下京十八組(修徳)小学校,上京二十九組(初音)小学校、下京二十四組(尚徳)小学校の各小学校に上京下京の生徒を集めて授業を視察されたそうです。おりしも西南戦争真っ只中のときのことだそうですよ。

道行く人は、だ~れもこの石碑に見向きもしませんが、ここにはかつて「以仁王」の邸宅であった「高倉宮御所」があり、この地で「平家追討」の「令旨」が発せられたのです。つまり、源平合戦の発端はこの場所であり、この「令旨」がなければ、「平家物語」ももっと違ったものとなっていたかもしれません。

「高倉宮」は平安時代には平安京左京三条四坊四町にあり、「高倉小路」に面していたので「高倉宮」と呼ばれました。その後、南北朝時代にはかなり大きなお寺であった「通玄寺(つうげんじ)」となり、その焼失後は境内にあった「曇華庵(どんげあん)」と統合され「曇華院(どんげいん)」となりました。「曇華院」も焼失、最高を繰り返し、明治時代には「上京第二十九番組小学校」がこの地に移転します。その後、「初音尋常小学校」、「初音国民学校」と引き継がれ、戦後は「初音中学校」となりました。その「初音中学校」も少子化で閉鎖され、現在は「京都市教育相談総合センター」となっています。

ここで「初音」という言葉が出てきますが、これは「曇華院」の境内の東北部分に「初音の森」という森があったことに由来しており、また、現在でもこの地は「曇華院前町」という町名として残っています。

アクセス

  • 京都市バス「烏丸御池」下車、徒歩3分

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