大酒神社 摩多羅神

始皇帝の末裔? ダビデの神社?

今日は「秦」の「始皇帝」が祀られているという「大酒神社」に参詣します。

海外の人物、それも実在した有名人を祀っている神社というのは、他にはあまりないのではないでしょうか。それがまた「秦」の「始皇帝」となると、けっこう壮大な話ですよね。

で、先日「いさら井」を訪れたときに紹介した「日猶(にちゆ)同祖論」においては、渡来した「始皇帝」の子孫である「功満王(こうまんおう:秦氏の祖)」がユダヤ人であったという説もあります。つまり渡来人であった秦氏はユダヤの末裔ということになります。むうぅ。

「功満王」は「秦」の「始皇帝」の皇帝14世の孫とされ、356年に渡来したと伝わります。「始皇帝」の神霊を勧請したことが「大酒神社」の始まりだそうです。また、その子である「弓月君(ゆづきのきみ)」は372年、百済より127県の民衆18670余人とともに渡来したそうです。これもすごい大移動ですね。その後「弓月君」の孫、「普洞王」の子である「秦酒公(はたのさけのきみ)」が471年、第21代・雄略天皇の詔を受けて、分散していた秦氏部民を統括して一族の首長となりました。「日本書紀」によると472年、部民は日本各地に分置されて税である庸・調の絹、絹織物を宮中に献上したとのことです。それらはうず高く積み上げられたため、天皇が「埋益(うずまさ)」と表したので、「禹豆麻佐(うつまさ)」の姓を与えられ、「太秦(うずまさ)」の地名の語源になったと描かれています。

さて、そんな秦氏でありますが、渡来人だけあって大陸の優れた技術を大いに発揮し、養蚕を広め、絹綾錦などを織り、大堰川の堰を作って灌漑をし、「秦酒公」の6代目の孫とされる「秦河勝」は603年「太秦広隆寺」を創建し、701年には「秦忌寸都理」により「松尾大社」が創建されました。さらに713年には「秦伊呂具」により「伏見稲荷大社」が創建されています。

現代の京都観光の立役者といっても過言ではありません。今の「観光都市京都」があるのは、ひとえに秦氏のおかげです。

この時代の流れの中で「大酒神社」はどのような変遷があったのでしょうか。創建の詳細は不明なのですが、「功満王」が、始皇帝の神霊を勧請したことに始まり、祀られた「大辟(避:おおさけ)神」より、災難除け、悪疫退散の信仰が生れました。「秦酒公」は大辟神社の境内に「呉服漢織」の神霊を祀りました。そして推古天皇11年(603年)、太秦広隆寺が建立されると、「大辟神社」は境内の「桂宮院(けいきゅういん)」に鎮守の社として祀られ「大辟の神」と呼ばれました。鎌倉時代から室町時代にかけては「大酒明神」とも呼ばれ、桂宮院にあった石をご神体として祀り、桂宮院の守護神になったそうです。江戸時代の明暦年間には、「呉服漢織」の神霊を祀った社が破壊されることがありましたが、その後合祀されたそうです。近代の明治元年(1868年)、神仏分離令後の廃仏毀釈以後、「大酒神社」は太秦広隆寺境内より現在の地に遷移されました。昭和45年(1970年)には道路の開通により境内は二つに分断され、北西半分が現在の大酒神社境内となっています。

現在のご祭神は本殿に「秦始皇帝」、「弓月王」、「秦酒公」の三柱が祀られています。もともと、「大酒神社」は、「大辟」、「大避」、「大裂」、「大荒」とも記されていたのですが、「秦酒公」の功績を讃えて、後に「大酒」に改められました。

なお、播磨国には今も「大避神社」があります。「秦河勝」は、播磨国に流れ着いたという伝承があり、「大荒(おおさけ)神」として祀られたという説です。

では京都市右京区太秦の「大酒神社」に行きましょう。

私は「帷子ノ辻」から東に向かって歩いて行きました。

大酒神社 No2

三条通りの「右京警察署」前です。道も狭いのですが、もうじき「太秦広隆寺」の変則交差点がありますので、良く渋滞します。

大酒神社 No3

「太秦広隆寺」前まで来ました。聖徳太子もお詣りしていたので有名です。

大酒神社 No4

「山門」ですが、本日はもう閉まっています。

大酒神社 No5

「太秦広隆寺」内は写真撮影が禁止になっていたと思います。ちょっと残念。

大酒神社 No6

「太秦広隆寺」の横の道を北東に進みます。少し坂になっていますね。

大酒神社 No7

正面には「比叡山」が見えます。ビルが無ければいい景色でしょうに。

大酒神社 No8

しばらく歩くと、左手に玉垣と生垣が続きます。ここが本日参詣する「大酒神社」です。入り口は一番東にありますので、生垣に沿って歩きます。

大酒神社 No9

入り口につきました。

大酒神社 No10

ご由緒書きです。

大酒神社 No11

「蠶(蚕)養機織管絃楽舞之祖神」「太秦明神、呉織神(くれはとりのかみ)、漢織神(かんはとりのかみ)」と刻まれた石標があります。「日本書紀」によりますと「呉織神」「漢織神」は、渡来した4人の織女のうちの2人とされています。建立は江戸時代の天保13年(1842年)です。

大酒神社 No12

「内宮源鳥居」と呼ばれる「八角柱」の鳥居です。吉田神社末社の「斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)」が有名ですが、「木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ:蚕ノ社)」の「三柱鳥居」も八角柱です。

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大酒神社 No13

神額です。

大酒神社 No14

紀元2600年の記念碑です。

大酒神社 No15

手水舎です。

大酒神社 No16

右側のは、井戸かと思ったのですが埋められていました。

大酒神社 No17

さらに奥に進みます。道が曲がっている右手に本殿が鎮座しています。

大酒神社 No18

見えてきましたよ。

大酒神社 No19

木々の配置がいい塩梅です。左右でご神灯の位置が違うのですが、こんなもんなんですかね。何かいわれがあるのでしょうか。

大酒神社 No20

「太秦広隆寺」の境内にあった「木枯神社」が、「大酒神社」の境内北西隅に遷移されたのですが、祠が台風で壊れてしまい、現在は本殿に合祀されています。

大酒神社 No21

なんか懐かしい鍵ですね。土蔵の鍵のような古いものです。

大酒神社 No22

鳥居の裏側です。八角柱であるのがよくわかりますね。

「日猶同祖論」を読んでから訪れると、秦氏の史跡はとっても神秘的に感じてしまいます。ユダヤの末裔なんて考えるとロマンが広がりますね。

もう一つ、「日猶同祖論」を思わせる祭事があります。それは「京都三大奇祭」の一つであり、現在「太秦広隆寺」で行われる「牛祭り」です。寺院にお祭りがあるのは珍しいケースで、もともとは「大酒神社」で行われていたお祭りでした。このお祭りでは、仮面や飾りつけをした「摩多羅(まだら)神」が牛にまたがり、松明を持って仮面をつけた赤鬼、青鬼の「四天王」に守護されながら、境内と周辺を一巡します。そして薬師堂の前で奇妙な節をつけて祭文を読み上げ、参拝者たちがその悪口を言います。これが終わると同時に「摩多羅神」は堂内に逃げ込み、四天王もその跡を追うという変わったお祭りです。

このお祭りは、平安時代の長和元年(1012年)、「恵心僧都源信」が、国家安泰、五穀豊穣、悪魔退散を願い、「摩多羅神」を勧請して始めたと言います。それ以前に、「円仁(えんにん)」が「唐」より勧請して持ち帰ったとされ、天台宗の常行堂の護法神です。その元をたどると、秦氏のルーツと目される中央アジア周辺には「ミトラ教」という宗教があり、その最高神である「ミトラ神」が牛の頭を持つ神として伝えられています。そのため、このお祭りはミトラ教信仰の名残と推察されています。

(しかし、とても残念なことに、現在はお祭りに使う牛が調達困難であり、ここしばらくはお祭りが行われていません。)

それに加えて、「大避」は「大闢」とも書かれ、この「大闢」は中国では「ダビデ」を意味します。つまり「大避神社」はユダヤの王を表しているということになります。

と、まぁ「日猶同祖論」贔屓の視点で見ると、壮大な物語があるように感じられるのですが、実際のところはどうなんでしょうか。みなさんご自身の眼で見て感じてください。

アクセス

  • 京都市バス「太秦広隆寺前」下車、徒歩5分
  • 京福電気鉄道「太秦」下車、徒歩3分

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