還幸祭 「おかえり」
今日は「武御前社」です。
「武御前社」は「たけおまえしゃ」でも「ぶごぜんしゃ」でもなく「たけのごぜんしゃ」です。絶対に一発では読めませんよね。「御前通り」は「おんまえどおり」ですし、一筋縄でいかないのが京都での読み方です。
場所は以前に紹介した「松尾大社西七条御旅所」の境内の北部分です。入り口が並んでいて、通りからは鳥居が二つ並んで立っている感じです。
「武午前社」の鳥居です。どっしりとした感じですね。
神額は石でできています。
すぐ目の前が本社です。
飾り金具が光っていてきれいです。
「武午前社」の説明書きがあります。
ご祭神は、「武甕槌神(たけみかづちのかみ)」です。旧西七条村の産土(うぶすな)神として崇敬されてきました。子どもが生まれると当社にお宮参りし、男児の額に「大」、女児に「小」という朱文字を書き、鼻を摘んでもらう慣わしがあったそうです。現代では「大」「小」なんて書くと、男女差別だといって問題になりますよね。
ここはちょっと変わった神社です。以前行われていた「武御前社」の祭礼では、「おかえり」と呼ばれる松尾大社の還幸祭で、「武御前の神輿」という白木のお神輿を新造します。そして「おかえり」の夜、この白木のお神輿を子ども達が「桂川」まで舁(か)いて行き、川に捨て、その翌日に再び舁き、摧(くだ)き壊します。その木切れを家に持ち帰り、厠(かわや:トイレ)に挿し、疫病封じの呪い(「のろい」ではなくて「まじない」です。お間違いの無いよう。)にしました。
その後には、お神輿は「桂川」に捨てるふりをして、再び御旅所に舁いて還ったというそうです。なんか、ややこしい祭礼ですね。
近世、明治19年(1886年)にお神輿が新造されます。昭和45年(1970年)までは還幸祭の翌日に、お神輿が還った跡を追って、御旅所周辺を巡行しました。まだ人々が居眠っている時だったため、「居眠り神輿」と呼ばれました。その後、一時中断し、昭和53年(1978年)にはまた復活しています。
現在は、親神輿が御旅所にある日曜日に、奉納された「金柑」を神主が子ども達に撒き、「延命息災」を祈願して御旅所周辺を神輿巡行しています。
この、お神輿を川に「捨てる」とは、どういう意味があるのでしょうか。神が宿っているお神輿を捨てるということは、その神様に対して「信仰していない」「偽りの信仰」「押し付けられた信仰に対する反発」などが考えられますね。「松尾大社」と言えば、「秦氏」の神であり、「秦氏」は嵯峨野や桂川流域からどんどんと領地を増やしていった豪族です。その「松尾大社」からの神幸祭、還幸祭が行われるというのは、支配された地域民にとっては、まさしく押し付けられた信仰ではなかったのでしょうか。そこからくる反発から、神輿を捨てるという行為が行われたのではないかと思います。お神輿の部材を厠に挿すなどというのは、どう考えても尋常じゃないでしょう。系統だった歴史の勉強をしたわけではないので、当時の西七条地域がどんなであったかは知りませんが、昔の人々が行った行為だけを見るとそんな風に考えてしまいます。それも、「子ども達」が行ったということですから、余計にそう考えたくなります。これを「大人達」がやると、やはり大きな問題になったのではないでしょうか。
実際のところはどうなのかわかりませんが、案内書きなどを読んでいると、空想が膨らんできます。メジャーな観光地もいいんですけど、地味な京都観光も面白いですよ。
アクセス
- 京都市バス「七条御前通」下車、徒歩4分