麒麟がくる 篠葉神社 とばっちり? 

光秀公 丹波攻略に苦戦する

「ききょうの里」、「谷性寺(こくしょうじ)」に引き続き、そのお隣の「篠葉神社」です。3つ並んでます。

ここも、NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」には出てこないでしょうけど、明智光秀公とは少し関係がある神社なんですよ。

天正3年(1575年)光秀公は織田信長より丹波攻略の命を受けて、丹波黒井城を攻めますが、八上城の波多野秀治の謀反によってあえなく敗走。天正5年(1577年)、亀山城と八木城、、船坂城、籾井城を落とします。翌、天正6年(1578)には、園部城、小山城、高山城、馬堀城、鬼ヶ嶽城と破竹の勢いで落としますが、赤井直正に奇襲をかけられ金山城で敗北。

その翌年の天正7年(1579年)には八上城、宇津城、横山城、黒井城を攻略し丹波を平定します。なんとまぁ、たくさんの城を落としたことでしょうか。

そんななかで、光秀公は天正7年(1579年)八木城主内藤備前守の支配下であった井内城(井内筑前守)を攻撃します。この時にとばっちりを受けて焼失したのが「篠葉神社」です。

では、行ってみましょう。

篠葉神社 No2

「谷性寺」の左手に「篠葉神社」に続く参詣道があります。「篠葉神社」の石票が立っていますね。

篠葉神社 No3

この石垣の上が「谷性寺」です。

篠葉神社 No4

「篠葉神社」ご由緒書きがあります。創祀は延喜4年(904年)に清和源氏の始祖である「貞純親王」の令旨によって当地の氏神として勧請創建された神社だそうです。

上にも書きましたが、天正7年(1579年)に光秀公の井内城攻略の際に戦火で焼失しています。その後、承応2年(1653年)氏子の手により再建されています。

当初は「楽々葉大明神御社」といわれていたそうですが、享保年間(1716年~-1735年)、旧伏見宮家第20代「邦家親王」により、「篠葉大明神」の号を贈らています。そして明治3年(1870年)「篠葉神社」と改称されました。

篠葉神社 No5

周りは田畑とききょうの里の花畑がありとてものどかですよ。

篠葉神社 No6

鳥居の前まで来ました。

篠葉神社 No7

「篠葉大明神」の神額です。端正な手作り感満載ですね。

篠葉神社 No8

本殿、拝殿の向く方向と、参詣路の方向がほんの少しずれています。「谷性寺」はもともと山の上にあったのですが、焼失した後にこの地に移ってきたので、この参詣道もそれにつれて少し曲がって付け替えられたものでしょう。

篠葉神社 No9

比較的新しいのでしょうか。彫のエッジが立っている印象です。あまり風化している感じは受けません。

篠葉神社 No10

凛々しいですね。狛犬ですが、なんとなく猫耳に見えますよ。

篠葉神社 No11

手水舎です。

篠葉神社 No12

現在井戸は使われていないようですね。

篠葉神社 No13

拝殿まで来ました。

篠葉神社 No14

今年の干支、亥です。他ではなかなか見られないようなかわいさですね。

篠葉神社 No15

拝殿から本殿を望みます。

篠葉神社 No16

本殿前です。

篠葉神社 No17

覆屋の中に本社が祀られています。

篠葉神社 No18

本社です。

篠葉神社 No19

末社ですが、書かれていませんのでよくわかりません。「保食神」をお祀りした「稲荷神社」でしょうか。

篠葉神社 No20

「秋葉神社」です。「火雷神」をお祀りしています。

篠葉神社 No21

左が「内宮神社で、「天照大御神」をお祀りしています。右は「外宮神社」で、「豊受姫大神」をお祀りしています。

篠葉神社 No22

駒札が読めません。

篠葉神社 No23

覆屋は結構な大きさなんですね。

篠葉神社 No24

西側にある鳥居です。

城塞を攻略するにはいろいろな方法があるのですが、戦になると、「火」がつきものなので、近隣に延焼することが多いです。そうなると、戦に関係のない村落であれ、神社仏閣であれ、とばっちりを受けて焼失してしまうことが多かったようです。

この「篠葉神社」もまさにとばっちりを受けて焼失したのですが、氏子さんたちのおかげで、今は古き時代を現代に告げる立派な神社として鎮座しています。「谷性寺」にお参りされたら、ぜひとも「篠葉神社」にもお詣りしてみてください。

アクセス

  • 京都縦貫道「亀岡IC」から車で約20分。

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