宮道朝臣列子墓 平安時代の元祖大恋愛

 紫式部の祖先にして源氏物語のモデル

山科の栗栖野(くるすの)丘陵に紫式部の祖先である「宮道列子(みやじのれっし)」の墓があります。紫式部好きの私は一度訪れてみたかったのですが、なかなか機会がなく、今回やっと訪れることができました。

このあたりは、西野山中臣町という地名に残っているように、古代においては中臣鎌足(藤原鎌足)で知られる豪族の「中臣氏」(後の藤原氏)が治めていた土地です。「中臣群集遺跡」や「中臣神社」などの史跡、旧跡も残っています。「列子」の墓も、「宮道古墳」と呼ばれ、「中臣十三塚古墳群」に含まれています。

さて、「宮道朝臣列子」とはどんな人だったのでしょうか。列子は宇多天皇の女御で,醍醐天皇生母である藤原胤子(いんし)の母となる人です。でも父は「山城国宇治郡大領 宮道弥益(みやじのいやます)という人です。実際、弥益は中下級官人だったようですので、列子も田舎官僚の娘でしかありませんでした。

「今昔物語集」巻二十二の七「高藤の内大臣の語」によりますと、藤原北家の基礎を築いた藤原冬嗣の孫に内大臣・藤原高藤という人がいます。高藤が若かったころ、南山科で鷹狩をしたのですが、急に雷雨に遭います。宮道弥益の邸で雨宿りして一夜を過ごし、この夜に見初めた弥益の娘・列子と結ばれます。高藤は結婚の約束をして帰るのですが、この時に胤子を授かったということです。六年の歳月の後、再び高藤が宮道邸を訪れると、列子の傍らには幼い女の子がいました。高藤の約束を信じ、娘を育てながら待っていた列子に、高藤は非常に心を打たれ、身分の差を越えて列子を妻として迎えたのでした。

一夜の恋から一途に思い続けて、高藤の妻になることを信じて生きてきた列子は、その両親の教育がとてもよかったのだと思います。

高藤と列子の二人の間には、胤子のほかに後の大納言・藤原定国(ふじわらのさだくに)、右大臣・藤原定方(ふじわらのさだかた)も生まれています。

後に成長した胤子は、宇多天皇の女御となり、醍醐天皇を生みます。列子は天皇の外祖母として従三位に叙されます。死後には正一位が追贈されています。墓は「後小野墓」と称されました。弥益の家は寺に改められて「勧修寺」となりました。この勧修寺周辺は、醍醐天皇の即位によって出世した藤原高藤・定方に始まる勧修寺流(藤原北家勧修寺流)の本拠地であったので、醍醐天皇や藤原家の史跡が一帯に残っています。列子は「勧修寺」の南にある「宮道神社」に、宮道弥益や藤原高藤、子どもたちと共に合祀されています。

紫式部による平安時代の大恋愛小説といえば源氏物語ですが、この列子と高藤の身分格差のある二人が結ばれた話が、源氏物語の光源氏と明石の君による身分違いの恋の話のモデルになったと言われています。先にも書きましたが、紫式部は、高藤と列子の子孫にあたります。

また、列子は「たまこ」とも呼ばれたそうですが、身分が数段格上の藤原高藤と結ばれ、娘の胤子のおかげで天皇の外祖母として従三位に叙されるというとても晴れがましい身分になったことにちなんで「玉の輿(たまのこし)」という言葉が生まれたという説もあります。

宮道朝臣列子墓 No2

「宮道古墳」です。「中臣十三塚古墳群」の一つの円墳で周囲に空堀があります。

宮道朝臣列子墓 No3

ロープが張ってあるのは車止めです。写真の右側は駐車場となっています。便乗して車を置かないようにしているものと思われます。

宮道朝臣列子墓 No4

「宮道列子」の墓は他の方のBlogなどを拝見すると、平地で竹藪の中になっている画像もあるのですが、現在は周りが開発されつくして新旧入り乱れて家が建つ住宅街の一角に突如出現します。

宮道朝臣列子墓 No5

「朝臣」は「あそん」「あっそん」「あそみ」とか、いろいろな発音がありますが、私は「あっそん」というのが好きです。

宮道朝臣列子墓 No6

昭和46年(1971年)ここの少し西側に「中臣十三塚古墳群」の一部が発掘され、周濠や横穴式石室の基底部、須恵器などが出土しました。「鎌足塚(十三塚)」と呼ばれ、藤原鎌足の殯舎(ひんしゃ)跡と伝えられています。しかしそのほとんどは宅地開発により消失してしまいました。現在でも残っている墳丘は、「折上神社」境内の円墳「稲荷塚古墳」、そしてこの「宮道古墳(宮道朝臣列子墓)」の2基だけになってしまっています。

ここに書かれているように、もともとは竹藪の中のなかなか人が入れないようなところでしたが、周囲が開発されてしまい、この「宮道古墳」も開発の海に飲み込まれるかもしれないという危機感から、地元の人たちが整備したようです。

宮道朝臣列子墓 No7

階段を上ります。

宮道朝臣列子墓 No8

以外にも簡素としたお墓でした。

宮道朝臣列子墓 No9

この古墳は、明治維新の頃に私有地となったようですが、昭和8年(1933年)9月に勧修寺宮旧臣の永田重泰という人が勧修寺に寄進したそうです。

宮道朝臣列子墓 No10

「宮道朝臣列子」の墓です。この五輪塔は平成19年(2007年)に立てられたものです。紫式部の祖先であり、源氏物語のモデルとなった人の墓だと思うと胸に迫るものがあります。

まだ、良縁に恵まれていないあなた、列子のお墓にお参りして良縁を手にしてくださいね。

アクセス

  • 京阪バス「栗栖野華ノ木町」下車、徒歩3分
  • 京都市営地下鉄「椥辻」下車、徒歩10分