ほんまですかいな?
久しぶりに、京都ネタに戻ってきました。長かったですね、番外編。今年は旅行によく行きますので番外編が多くなっています。
で、今回は京都に戻り、三条通りにある「辨慶石(弁慶石:べんけいいし)」です。
「辨慶」とは、当然「武蔵坊弁慶」のことを指します。場所は三条通りの「麩屋町(ふやちょう)通」を東に入ったところです。「麩屋町通」の角には「よーじや」さんがあるのですぐわかります。「辨慶石」は「よーじや」さんの東隣のビルにあります。
まずは、行ってみます。
昔からここに在ったのでしょうけど、このビルが建てられる前の様子は覚えていません。こんなんあったかなぁ、というのが本音です。
「弁慶」って、大男という印象もあって、その「弁慶」が愛でた石なので石自体も大きいのですが、なんか窮屈な場所に押し込められている印象です。
日陰で写真写りが悪いので近づいてみました。少し緑っぽい意志ですね。
「辨慶石の由来」が書かれています。この由緒書きによると、「弁慶」は幼少期には三条京極に住んでいたそうです。この石はなんでも、五条大橋から住んでいた三条京極までぶん投げたとか。ほんまですかいな?
「弁慶」は、「源義経」を守護して奥州「高館(たかだち:岩手県平泉)」に逃れたのですが、この「辨慶石」も高館へ移されました。「弁慶」は「高館」で最期を遂げるのですが(有名な「立ち往生」)、室町時代の享禄年間には、「辨慶石」が「三条京極に往かん」と発声鳴動し、「高館」に熱病が蔓延して「辨慶のたたり」だとうわさが広がり、享徳3年(1454年)人々は恐れて「辨慶石」を京都の三条「京極律寺」に戻しました。そのことからこの辺り一帯が「弁慶石町」という名前になり、現在に至ってます。
というのが一番流布している由来なのですが、他にも
- 弁慶はこの石の上に立ち最期を遂げた。石は奥州衣川の底にあった。まず石は京の山科まで来た。石を移し南禅寺に置いたが、その後、石は京の五条大橋に行きたいと告げた。
- 弁慶が鞍馬口(上京区)で腰掛に使っていた石が、洪水によってこの地まで流された。安土・桃山時代には三条河原(三条京極)に「辨慶石」があり、人々は力試しのための力石として使っていた。
などとも言われます。
さて、「弁慶石町」まで来た「辨慶石」ですが、その後にも変遷があります。
「辨慶石」は天明8年(1788年)、「誓願寺」に預けられ、「方丈庭」に置かれました。明治25年(1892年)「弁慶石町」の人々が返還を求め、翌明治26年(1893年)に引き取られ、昭和4年(1929年)に現在地に移して保存したそうです。
その後、昭和9年(1934年)、銀行が土地を買い取り、延暦寺の僧侶が祈祷して石を移動させたのですが、直後に「室戸台風」が京都を襲い大きな被害を与えたという逸話もあります。
ま、いろいろな云われもあり、長らく放置されていたいたようですが、三条通りの再開発の余波を受けて、京都観光の一つとしてよみがえりました。
「辨慶石」には男の子が石を触ると将来力持ちになれる、「火魔・病魔」から逃れることができると言う言い伝えもありますし、少し古いですがアニメの「名探偵コナン 迷宮の十字路(2003年4月)」にも出てきてるそうです。
アクセス
- 京都市バス「河原町三条」下車、徒歩6分