麒麟がくる 西教寺

光秀公による復興

あ! 忘れとった!

今回、「麒麟がくる」にかこつけて、大津は坂本まで来たのですが、坂本探訪の大事な目的を紹介し忘れてました。すでに紹介済みの史跡である「坂本城跡」も「麒麟がくる」に大いに関係あるのですが、やっぱりここを忘れていてはいきません。

年末に「来年から『麒麟がくる』がはじまるなぁ。なんや薬のせいで放送が遅れるそうやで...」とかなんとか話をしていたのですが、大河ドラマが始まると、世の中ではその関連地が観光客であふれかえるので、始まる前に見ておこうという話がまとまりました。例年よりも2週間遅れるとのことで、正月明けの休日に行ける所を探します。近所はいつでも行けるし、少し離れた所ということになり、大河ドラマのはじめに出て来るであろう岐阜県の可児市あたりまで行こうと考えました。でもねぇ~。正月休み、遊び過ぎてけっこう体が言うこと聞きません。もう少し近いところで、頭角を現した光秀公が治めていた坂本の地を巡ることに。

「坂本城跡」や城下町もいいのですが、やっぱり外せないのが明智一族の菩提寺でもある「西教寺」です。光秀公の正室である「熙子」もここに眠っています。ちゅうことで、今回の坂本探訪は「坂本城跡」と「西教寺」の2本柱で攻めることに。

でもね、地図を見ると、「坂本城跡」は坂本の中心部から南東方向のはずれ、「西教寺」は北西方向のはずれ。かと言って車で巡るのもなんですからねぇ。せっかくなら市街地や旧跡も見ながら、あわよくばうまいもんを食べながら...などと妄想ばかり膨らむので、車は大津市営「大宮川駐車場」にとめて、坂本の街を歩きまくりました。

麒麟がくる_西教寺 No2

「大宮川駐車場」は市街地の北西方向、けっこう山手の小高い丘の上にあります。そこからまだ北西方向に「西教寺」があります。えっちらおっちら歩きましょう。10分か15分で到着できそうです。まだ上り坂が続きますね。

麒麟がくる_西教寺 No3

景色は良いですよ。眼下に坂本の街と琵琶湖がきれいに見えてます。

麒麟がくる_西教寺 No4

ちょうど坂の頂上が「西教寺」です。駅からバスが出てますので、歩くのしんどい人はバスで来てもいいかもしれません。

麒麟がくる_西教寺 No5

一応、参拝用の駐車場もありますので車でも来られます。でもここに停めて市内散策すると迷惑なので、車は市営駐車場に。

麒麟がくる_西教寺 No64

駐車場にあった看板。「宗祖真盛上人について」と書かれています。朝廷・公家・武士・庶民へ持戒と念仏の布教を行い「西教寺」を再興した人です。

麒麟がくる_西教寺 No65

その横に「西教寺と護猿(ござる:まもりざる)の由来」と書かれた看板もあります。一揆の首謀者が「真盛上人」だと誤解した僧兵が「西教寺」の本堂に押し寄せると、そこには一匹の手白の猿が上人の身代わりとなって鉦(かね)をたたいていたそうです。「日吉大社」の使者である猿までが上人の教化を受けて念仏を唱えていることに感じ入った僧兵はその場を立ち去ったといいます。

麒麟がくる_西教寺 No6

さて、門前です。「明智光秀公」とでっかい幟がはためいています。

麒麟がくる_西教寺 No7

右側には「天台真盛宗総本山 西教寺」と立派な石碑が立っています。

麒麟がくる_西教寺 No63

左側には「明智光秀公と一族の菩提寺」とこれまた立派な石碑が立っています。

麒麟がくる_西教寺 No8

「西教寺」の山門です。焦って斜めになってしまってます。すんません。

麒麟がくる_西教寺 No12

駒札にあるように「坂本城」の城門を移築したものです。

麒麟がくる_西教寺 No9

「沢庵禅師の碑」です。

麒麟がくる_西教寺 No10

「沢庵禅師」は慶長19年(1614年)に京都から「石山寺」「三井寺」を巡って「西教寺」に来たそうです。

麒麟がくる_西教寺 No11

ちょっと読みにくいです。

麒麟がくる_西教寺 No13

こちらにも何かの碑がありますね。

麒麟がくる_西教寺 No14

平成17年に開催された「第39回全日本仏教徒滋賀大会」の大会宣言である「出会い 縁を生き、伝えるわれら」を記念とした碑だそうです。

麒麟がくる_西教寺 No15

こちらにも「西教寺と護猿の由来」が書かれています。

麒麟がくる_西教寺 No16

まぁ、山門の前からたくさん楽しませてもらえますね。だいぶんと時間を取りましたが、やっと山門をくぐります。坂本城の城門ですよ。

麒麟がくる_西教寺 No17

で、中に入るとまた看板。

麒麟がくる_西教寺 No18

で、気になったのがこれ。「文学ゆかりの地」ということで小説家の三浦綾子さんが初めて書いた歴史小説の「細川がラシャ夫人」に出てくるそうです。

麒麟がくる_西教寺 No19

山門をくぐると、両側に塔頭が並び、気の遠くなるような坂が続きます。う~ん。

麒麟がくる_西教寺 No20

最初は会話も快活に歩いていたのですが、だんだん無口になり...

麒麟がくる_西教寺 No21

ハァ...ハァ...ハァ...。  やっと「勅使門」につきました。駐車場からここまで登りっぱなしです。

麒麟がくる_西教寺 No22

やっと「大本山」らしくなってきましたね。

麒麟がくる_西教寺 No24

「西教寺」は「聖徳太子」が恩師である高麗の僧「慧慈」、「慧聡」のために創建したお寺だそうです。

麒麟がくる_西教寺 No25

こちらから、本堂の方に向かいます。

麒麟がくる_西教寺 No26

立派な門です。中に建物が見えますね。

麒麟がくる_西教寺 No27

一瞬、本堂かなと思ったのですが違いました。

麒麟がくる_西教寺 No28

「宗祖大師殿」です。「真盛上人」の木像を安置しているお堂だそうです。

麒麟がくる_西教寺 No30

「宗祖大師殿」前の門。

麒麟がくる_西教寺 No29

琵琶湖が見えて良い絵になってます。

麒麟がくる_西教寺 No31

この唐門には上の画像のような彫刻がなされています。鳩? スズメ? 雉? なんなんでしょうかね? 帰ってから気になって調べてみましたがわかりませんでした。

麒麟がくる_西教寺 No33

「宝珠丸(宗祖真盛上人幼形像)」とあります。「真盛上人」は「紀貫之」の末裔だそうです。出家した7歳の時の像です。

麒麟がくる_西教寺 No34

こちらにもありました。

麒麟がくる_西教寺 No35

雰囲気がいいですね。山の中のお寺に来たような気分です。

麒麟がくる_西教寺 No36

さて、本堂の方に向かいましょう。

麒麟がくる_西教寺 No37

石段の上の少し高くなっているところに本堂があります。

麒麟がくる_西教寺 No38

ここの石積みも「穴太積み」なのでしょうか。

麒麟がくる_西教寺 No39

上がってきました。ここが今回の一番の目的地です。

麒麟がくる_西教寺 No40

まずは手水舎。

麒麟がくる_西教寺 No41

「西」のマークは読めますが、漢字か梵字かわからない字が書かれています。

麒麟がくる_西教寺 No42

そうそう「西教寺」の山号は「戒光山」です。

麒麟がくる_西教寺 No43

こちらが本堂です。

さて、ここからが本題。「麒麟がくる」との関係です。元亀2年(1571年)、「織田信長」による比叡山焼き討ちの際に西教寺も焼失してしまいます。本堂は焼失の3年後に復興しているのですが、現存する本堂はその後改築されたもので、江戸時代中期である元文4年(1739年)に上棟されました。

信長公による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は光秀公に与えられ、光秀はこの地に「坂本城」を築きました。光秀公は比叡山焼き討ちを指揮した張本人ですが、寺の復興にも光秀公の多大な援助があったと推定されています。光秀公が戦死した部下の供養のため、「西教寺」に「供養米」を寄進した際の「寄進状」が寺に現存しているそうです。

麒麟がくる_西教寺 No44

「麒麟がくる」とは少し離れますが、天正18年(1590年)、「後陽成天皇」は綸旨を発して、応仁の乱後に荒廃して廃寺となっていた京都岡崎の「法勝寺」をその末寺である「西教寺」に合併させることとしています。「法勝寺」の寺籍は「西教寺」に引き継がれ、法勝寺伝来の仏像、仏具等も「西教寺」に移されました。これが寺の正式名が「兼法勝西教寺」といわれる理由です。

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麒麟がくる_西教寺 No45

本堂の奥にちらっと見えているのが、桃山時代の慶長3年(1598年)に落成した「客殿 」です。もともとは秀吉公の「伏見城」にあった旧殿でしたが、大谷刑部吉隆の母「山中長俊守内室」が寄進して、ここに移築されたものです。こちらも拝観したかったのですが、訪れたのが拝観時間前でしたので残念ながら拝観できませんでした。「客殿」の仏間に安置されている「薬師如来坐像」は法勝寺の遺物です。

麒麟がくる_西教寺 No46

とまあ、お寺や文化財としての見どころ満載の「西教寺」ですが、これだけでは「麒麟がくる」との関連は薄いですね。光秀公が焼き討ちで焼失した「西教寺」の復興に寄与した、で終わりそうなのですが、実はこの「復興」が相当な手の入れようだったようです。

麒麟がくる_西教寺 No47

その証拠に「西教寺」には「明智光秀公とその一族の墓」があります。

麒麟がくる_西教寺 No48

この画像の上の方の白壁の向こう側が墓地なのですが、明智一族のお墓は別格で、この境内に建てられています。

麒麟がくる_西教寺 No49

ききょうの御紋もまぶしく「明智光秀とその一族の墓」が祀られています。

麒麟がくる_西教寺 No50

駒札には「坂本城主明智日向守光秀とその一族の墓」と書かれています。

麒麟がくる_西教寺 No51

三角形に近い年代を感じさせるお墓です。

麒麟がくる_西教寺 No66

そして極めつけは正室であった「煕子」の墓です。いろいろと光秀公を立てた妻として逸話が残る「煕子」ですが、夫婦仲はよかったとされ、光秀公が「山崎の合戦」の後に亡くなる6年目に、光秀の看病疲れから病死したとのことです。この「煕子」という名前ですが、なんか違和感がありませんか。むっちゃ現代風ですよね。この「煕子」という名前は、三浦綾子の小説『細川ガラシャ夫人』から広まったもので、その前には「お牧の方」と呼ばれていたそうです。「煕子」の父は「妻木範熙(妻木勘解由左衛門範煕)」とされますが、「西教寺」は「妻木氏」の菩提寺でもあります。

麒麟がくる_西教寺 No58

「坂本城主・明智光秀の妻 煕子の墓」と駒札が建てられています。

麒麟がくる_西教寺 No54

こちらには光秀公辞世の句が建てられています。

順逆無二の門 大道は心源に徹す 五十五年の夢、覚めて一元に帰す

麒麟がくる_西教寺 No55

江戸時代に書かれた「明智軍記」によると、光秀公はこの辞世の句を「溝尾庄兵衛」に託して自刃したとのことです。(でも、現代の研究では後世の偽作であろうといわれています。)

麒麟がくる_西教寺 No59

「妻木一族」の供養塔もあります。

麒麟がくる_西教寺 No60

本能寺の変、山崎の合戦、坂本城の落城と光秀公と共に戦ってきた濃州妻木一族も多くが討ち死にしたり、自刃したりしています。

麒麟がくる_西教寺 No53

そんな大きな世の中の流れを受け入れながらもじっと見てきた「西教寺」です。今回紹介した以外にも、武将や公家さんたちのお墓があります。

そんな中で、ちょっと目を引くのがこちら。

麒麟がくる_西教寺 No52

なんでか「そろばん」を持った仏像が。慶長17年(1612年)、時の長崎奉行であった「長谷川左兵衛藤広」について長崎に行った「片岡庄兵衛」が、「明(中国)」の商人から算盤を手に入れ、日本人に合うよう改良を加えて「大津そろばん」を完成させた事から、日本中にそろばんが普及していきました。日本の「そろばん」は大津が発祥の地なんですね。当然、上玉(5の玉)が2個ある旧来のそろばんですよ。その「長谷川藤広」の墓もあります。

麒麟がくる_西教寺 No61

「西教寺」は「麒麟がくる」でも登場するでしょうが、どんな風に描かれているでしょうかね。そんなことを想いながら「西教寺」を後にしました。

麒麟がくる_西教寺 No62

途中の塔頭のお庭。山門や石垣がなくオープンになっていたのですが、はたと庭の美しさに立ち止まりました。名のある庭ではないでしょうし、私の写真の腕がへたくそなので、実際の雰囲気は伝わらないでしょうけど、こんな庭もいいなと思わせる簡素な美しい庭でした。

「西教寺」は「麒麟がくる」にかかわらず、見どころの多いお寺です。桜の季節が美しいとのこと。暖かくなった春に訪れるのがいいですね。

アクセス

  • 京阪石山坂本線「坂本比叡山口」下車、徒歩25分(江和バスで約4分 ”西教寺”で下車)

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