出雲寺 歴史の流れ

平安遷都以前の京都って?

日本史の教科書に初めて京都が出てくるのは、延暦13年(794年)10月22日の桓武天皇による平安遷都ですね。(今の歴史の教科書は見てないのでよくわかりません。私の時代の教科書はこうでした。)

何もなかったところに、いきなり平安京が出現するというわけもなく、平安京の以前から、京都の地には人の営みがありました。

当然、碁盤の目のような道があるわけでもなく、盆地があって、川が流れているという平凡な土地でした。

宣化天皇3年(538年)の仏教伝来以降,各地の有力豪族たちは自分達の精神的な支えとして、その本拠地に寺院を建立します。京都においては,その多くが盆地を見おろす山すそに築かれました。

京都にも、有力な豪族がいくつかあったのですが、その一つに出雲氏があります。

出雲氏は、天穂日命(あめのほひのみこと)を始祖とする氏族です。平安京以前に,山陰道の出雲地方から丹波を経て京都(山背国愛宕(おたぎ)郡出雲郷)へ移住し,大きな勢力を築いていたといわれています。

氏の名から出雲郷の地名が生まれ,現在でも出雲路(京都市北区)や出雲路橋という名が残っています。出雲郷には、氏寺である出雲寺(後に上出雲寺・下出雲寺に分かれた)も存在し、早くから仏教文化を受入れていたことがわかります。また、紙漉きなど優れた手工業の技術を持っていましたし、鉄製品を生産していたこともわかっています。

残念ながら、当時の上出雲寺・下出雲寺は存在しません。上出雲寺は現在の上御霊神社の境内付近に存在していたと推測されています。また、下出雲寺は相国寺辺りであろうと考えられています。

出雲寺

古代の出雲寺は、廃寺となりましたが、現在も出雲寺は存在します。上出雲寺から「聖観音立像」を遷して安置しています。

出雲寺 No2

寺町通です。私は、今出川通りの方から、寺町通を北上してきました。寺町通には出雲寺の案内などは出てませんので、GoogleMapなどで確かめてから訪ねてください。寺町通りから少し西に入ったところの住宅街の中にあります。

出雲寺 No3

山門です。かつては、寺敷も広かったのでしょうが、右の方は家が建ち、塀もありません。

出雲寺 No4

「厄除阿弥陀如来」と彫られています。

出雲寺 No5

山門をくぐってすぐ左手がお堂です。この出雲寺は、南北朝時代の文和2年(1353年)、良阿が創建したそうです。

出雲寺 No6

こじんまりとしたお寺です。

出雲寺 No7

「光明山出雲寺」です。

出雲寺 No8

「出雲路観音」と書かれています。最初にも書きましたが、「聖観音立像」は上出雲寺から遷されたもので、「出雲観音」「出雲路観音」とも呼ばれます。この観音像は、上出雲寺の廃絶により、上御霊神社の観音堂に祀られたのですが、めいじがん(1868年)の神仏分離令に伴って、明治6年(1872年)に当寺(出雲寺)に遷されました。

残念ながら、お堂は閉まっていましたので公開はされてないようですね。

出雲寺 No9

平安遷都から1200年以上がたちます。平安遷都以降の歴史は多くの書物やネット情報でたくさんありますが、平安遷都以前の京都についての情報は少ないですね。平安京がなかったころの京都の暮らしというものに興味を惹かれます。

アクセス

  • 京都市バス「出雲路神楽町」下車、徒歩5分

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