市川神社 治水の神様

昔も今も治水は重要

今日は、先日から時々登場している「西高瀬川」近くの神社です。お詣りするのは、京都市右京区にある「市川神社」です。

「市川神社」のことに言及する前に、まずは「西高瀬川」のことを少し。

江戸時代の初期に「角倉了以」は「大堰川」を開削し、丹波地方の物資を京都に運ぶ水運を築きました。これにより、丹波地方の材木や米、農作物などが船を使って「大堰川」の渡月橋まで運ばれることとなります。

しかし、「渡月橋」のある嵯峨嵐山は、江戸時代といえどもまだまだ人の少ない田舎であり、ここから京の都の中心部まで物資を運搬するのは大変でした。そこで「大堰川」の水運を、京の都の中心部まで延長するために開削されたのが「西高瀬川」です。

「西高瀬川」は文久3年(1863年)に嵯峨(渡月橋上流)から「千本三条」までが開削されました。そののちの明治3年(1870年)当時できたばかりの京都府が引き継ぐ形で伏見の鴨川まで開通させています。

近世に作られた運河なので、水路は直線的かつ直角に曲がるという、都市構造に迎合した形で流れています。地図で見るとよくわかるのですが、階段状にガタガタと折れ曲がって流れています。

現在では渡月橋から流れ出た水は「天神川」に注ぐように改修されてしまったので、その先の部分にはあまり水が流れることがありません。特に「西大路三条」辺りは干上がっていることが多く、川底が顔を出しています。

さて、そんな「西高瀬川」ですが、川沿いに歩いてみるといろいろな風景が見られてとても面白いです。「西高瀬川」沿いの道からほんの少し離れるのですが「市川神社」に行ってみます。

市川神社 No2

「天神川三条」から「西高瀬川」沿いに歩いてくると、道は少し左に曲がり、「西高瀬川」は少し右に曲がり、両者は離れてしまいます。

市川神社 No3

でもまだ「西高瀬川」沿いには、細い細い道がくっついています。川の方も形が変わってしまって、水路というよりも、どこにでもあるような排水溝のようですね。

細い道をどんどん歩くと「西高瀬川」の北側に「市川神社」があります。

市川神社 No4

ちょっと道が遠回りしているのですが「市川神社」の方に行くと、見えてきましたよ。

市川神社 No5

入り口は住宅と駐車場の間の細い路地です

市川神社 No6

路地の終点に鳥居があります。

市川神社 No7

ご由緒書きがありました。ご由緒書きに書いてあるのですが、「太秦村誌」によると「市川神社」は常に泥沼の中にあって、洪水でいつも水の上に浮かんでいるような様子だったと書かれているそうです。

もともと「大堰川」の流域であったこの地域は、川の氾濫によりたびたび被害を受けていたのですが、渡来人の「秦氏」が太秦一帯の治水灌漑に取り組み、徐々に「大堰川」の氾濫は減っていきます。そして秦氏は海の神、水戸の神である「速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)」と「速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)」の水に縁のある二神を祀りました。これが「市川神社」の始まりです。

市川神社 No8

こちらが「市川神社」の祠です。

市川神社 No9

こじんまりとした感じですね。

市川神社 No10

お隣にはお稲荷さんがあります。

市川神社 No11

「御輿」の収納庫があります。「椙ケ本町」「東奥殿町」の文字が見えます。

市川神社 No12

こちらは「大石町」の御輿収納庫です。

とってもお祭りが盛んなようですね。またご由緒書きに書かれていますが、かつて境内の中央東南に御神木の「大杉」がありました。「注連縄」が張ってあり、大人5人が手を広げても及ばないほどの太さで、高さは30メートルあったそうですが、大正時代後期に落雷に遭い、残念ながら枯れてしまったそうです。

太秦を歩くと「秦氏」の残した史跡があちこちで見つかりますね。御輿の出るお祭りも盛んなようで、「秦氏」の偉業に対して地域の人々がとても感謝していたであろう姿がうかがわれます。

アクセス

  • 京都市バス「太秦小学校前」下車、徒歩2分

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