聖隣寺 信長公供養塔

その後の『麒麟がくる』

いまだに『麒麟がくる』にこだわってる亀人の私です。

光秀公の討ち入りが天正10年6月2日(1582年6月21日)。討ち入りして信長公を亡き者にしたとはいえ、その「首」がないと世間に対して信長は亡き者と信じ込ませることはなかなかできません。それゆえ光秀公の家臣らも必死で捜索しますが、結局は見つけだすことはできずじまい。ま、当時の科学力からすると、焼け跡の中から首を探し出すことなどできるはずもありませんよね。

羽柴秀吉なんかは「信長公は健在」とウソを流して煽動をあおる始末で、結局は光秀公の天下は、もろくも崩れ去ることとなります。

で、当の信長公の「首」ですが、本当にきれいさっぱり灰燼に帰したという説や、僧侶が密かに持ち出したという説など、後世いろいろな話が語られています。

遺骸は無くとも親族としては弔いたいもので、あちこちに供養の墓や供養塔が建てられることとなります。信長公の墓として有名なのは京都市上京区の「阿弥陀寺」でしょうけれども、私の住む亀岡市にも信長公の供養塔があります。

その供養塔があるのは「聖隣寺」というお寺で、亀岡市の古い街並みの中にあります。今回は「聖隣寺」を訪れて信長公の菩提を弔いたいと思います。訪れたのは『麒麟がくる』の最終回が放送された2月7日です。

聖隣寺_信長公供養塔 No2

「聖隣寺」の門前。戸が閉まっていたので拝観していないのかと返りかけたのですが、御住職が現れて「どうぞ、どうぞ。」と招き入れていただきました。

聖隣寺_信長公供養塔 No3

「臨済宗 護国山 聖隣寺」と刻まれた石柱。

聖隣寺_信長公供養塔 No4

案内板と達磨大師のレリーフ。そして壁面にある「狭間」。

聖隣寺_信長公供養塔 No5

聖隣寺
山号 護国山
宗派 臨済宗天龍寺派

明応二年(一四九〇)に天龍寺の開祖である夢窓国師の五世法孫である至圓周悟禅師により古世町地蔵ノ辻に栖林庵として創建されました。天正二十年(一五九二)には亀山城主小早川秀秋より息子の菩提を弔うために米二石の寄進を受けました。また、この時、元丹波国分寺の守護神であり、明智光秀が亀山城を築城した際に城の鎮護のため二の丸に安置されていたものを、当寺の境内に毘沙門堂を建てて城下町の守護神として安置しました。
貞享三年(一六八六)の大火により現在地に移され再建されました。
山門の袖塀には、狭間が設けられていますが、これは有事の際には同寺が防御線となるのを想定して造られたものといわれています。

ひとくちコラム

聖隣寺境内の墓地には、織田信長の供養塔があります。明智光秀が大山崎の合戦で敗れた後、亀岡は豊臣秀吉の支配地となり、亀山城には豊臣氏の重臣が城主或は城代として配置されます。その中の一人に、秀吉の養子となり羽柴秀勝として亀山城主に配置された織田信長の四男於次丸がおり、供養塔はその秀勝が父信長の菩提を弔うために建立したものです。五輪塔には、信長の戒名である「総見院殿一品泰厳大居士」を読み取ることができます。明智光秀が作り上げた亀山城下に相対した織田信長の供養塔があるのも、不思議な歴史の縁を感じさせます。

聖隣寺_信長公供養塔 No6

心の中を見透かされているような眼力です。さすがに達磨さんですね。

聖隣寺_信長公供養塔 No7

貞享年間当時のままなのでしょうか。ごつごつとした瓦や柱が印象的な屋根です。

聖隣寺_信長公供養塔 No8

山門をくぐると左右に白壁と白川砂の枯山水。一瞬にして世界が変わったような印象を受けます。山門の外の俗世間からこの通路を通ってありがたい彼岸の地に赴くような感覚です。

聖隣寺_信長公供養塔 No9

やはり、屋根や瓦が印象的ですね。

聖隣寺_信長公供養塔 No19

「狭間」もそうでしたが、「物見やぐら」のようですね。

聖隣寺_信長公供養塔 No10

御手洗です。

聖隣寺_信長公供養塔 No11

流水はありませんが、ちゃんと水が張られています。

聖隣寺_信長公供養塔 No12

さて、供養塔があるの入って右側の方にある墓地の中です。

聖隣寺_信長公供養塔 No13

ちょっとお邪魔して手を合わさせていただきましょう。訪れる人が多いのか、供養塔の場所がイラスト入りで書かれています。

聖隣寺_信長公供養塔 No14

お墓は盛り土をした高台の上。石段登って...

聖隣寺_信長公供養塔 No18

おお、ありましたよ。

聖隣寺_信長公供養塔 No15

「織田信長公 供養塔」です。

聖隣寺_信長公供養塔 No17

織田信長公墓処
五輪供養塔
戒名 総見院殿一品泰厳大居士
天正十一年(一五八三)丹波少将として亀山城に入場した羽柴秀勝が建立 秀勝は信長公の第四子でのちに豊臣秀吉の養子になるが父信長公のためにこの五輪塔を建立 信長公は天正十年六月二日京都本能寺の変で明智光秀に敗れ死去された

聖隣寺_信長公供養塔 No16

信長公といえば無鉄砲でやりたい放題という人物像が一般的でした。行動を起こすときにはその通りなのですが、その行動を起こすまではけっこう小心者で綿密に物事を考える知力派であったと思います。でないとあそこまで上り詰めていくことはできなかったでしょう。そんな彼も最後は、まさか光秀がこんな時期にこんなところで...と思ったでしょうが自分の人生を思い返すと気が晴れて冥途へ旅立って行ったのではないでしょうか。

なんかちょっと気持ちが晴れた気がしました。単純ですね。

そういえば案内板に、光秀公が二の丸に安置した国分寺の守護神が毘沙門堂に移されたと書かれていましたが、もしかして「聖隣寺」の塀にくっつくようにして立っていたのが「毘沙門堂」でしょうか。気になるので見に行きましょう。

聖隣寺_信長公供養塔 No20

お寺の境内から見えている屋根です。一応、塀の外側になってますね。

聖隣寺_信長公供養塔 No21

敷地の北西角にある建物です。

聖隣寺_信長公供養塔 No22

おお、扁額に「毘沙門尊天」とありますよ。

聖隣寺_信長公供養塔 No23

すんません、中をちょっとのぞかせてもらいました。もしかして、これが国分寺からきた「守護神」なのでしょうか。私の大好きな「国分寺跡」。今は荒れ果ててしまっていますが、そこからきた神様に会えるというのはまさに青天の霹靂。この日は2度も心安らかな気分になりました。

私はあまり神社仏閣に関する知識がありませんし、事前情報なしの行き当たりばったりな探索ばかりですが、なにかしら目にするもの、肌で感じるものに因縁を感じてしまいます。こういう体験ができるので徘徊はなかなかやめられそうにもありません。

アクセス

  • JR嵯峨野線「亀岡駅」下車、徒歩20分程度

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