平安朝の迎賓館
昨日「豊楽院(ぶらくいん)」の一部である「豊楽殿跡」を紹介しましたが、今回は「豊楽院跡」の方を見ましょう。
現在見ることのできる「豊楽院跡」は、一番北にあった「北廊跡」と「清暑堂跡」です。
「豊楽院」は平安宮の大宴会場でした。大内裏の朝堂院の西、現在の聚楽廻西町・南町(じゅらくまわりにしまち・みなみまち)付近に位置していました。詳しい記録がありませんが、800年ごろに建てられたようです。「天子宴会之処(てんしえんかいのところ)」と呼ばれて、平安時代初期においては、正殿の大極殿(だいごくでん)と並ぶ最重要な建物で、多くの国家行事が行われていました。
「豊楽院」の敷地は縦長で、東西56丈(170m)、南北136丈4尺(413m)あって周囲に築地を廻らしていました。
下の画像は「豊楽院跡」の案内書きの拡大です。
「豊楽院」は、北寄り中央の天皇が出御する正殿「豊楽殿」を中心に、諸臣が着座する4つの堂が建てられており、各々の建物は回廊で結ばれていました。
殿堂で囲まれた豊楽院の前庭では、国家行事である饗宴が行われていました。正月恒例の元日の白馬(あおうま)、踏歌(とうか)、射礼(じやらい)、賭弓(のりゆみ)、相撲(すまい)などの節会(せちえ)の宴、そして大嘗祭(だいじょうさい)・新嘗祭(にいなめさい)の他に、渤海国使節団歓迎のための宴などもここで開催されました。
先日紹介した「平安宮豊楽院跡」の、道を一本隔てて北側です。京都市内の中心部で、これだけの土地の広さがあると、けっこうなお値段がかかるはずです。京都市が買い取ったのかな? 旧跡が残されているというのはありがたいことですけどね。
ただの空き地のように見えますが、石票が設置されています。
「豊楽殿」から「清暑堂」につながる「北廊跡」です。
コンクリートで覆われている部分が、建物のあった場所です。
保存されている敷地の一番北が「清暑堂」跡になります。「清暑堂」は「豊楽院」の一番北側の建物です。清暑堂は、天皇が出御の際に控えの間として使用され、豊楽殿とは上の北廊(渡り廊下)で繋がっていました。また、清暑堂では独自の儀式(清暑堂神楽)も行われていたとされています。
「平安宮跡豊楽院跡」の石票です。
隣に案内書きがあります。
だいぶんと古い感じの案内書です。
附近の平安宮ゆかりの史跡が紹介されています。
平安宮の国家行事の中心地であった場所で、当時の日本の政治の中心地であったと思うと、私の毎日の通勤経路である丸太町通りが輝いて見えます。
アクセス
- 京都市バス「千本丸太町」下車、徒歩2分